Yushiのオーストラリア高校留学・体験談5ヶ月目
こんにちは。 って言うのも久しぶりだ。日本を発ってから4ヶ月ぐらいが過ぎた。日本は今、湿っぽい季節の真っ只中だろうか。こちらはうんと冷えてきて日本から届いた服に一安心しているところだ。しかしこうしてレポートを書いてると変換してぽんぽん現れる目の前の漢字が外国語いや、宇宙語のようにさえ感じる。後ろのテレビでは日本の”IRON CHEF”「 料理の鉄人」が流れている。オーストラリアでは結構有名みたい。
さあ何を話そう。この2ヶ月もうんといろんなことがあった。
10時間車の中で待って、メルボルン。ホストファミリーは僕を残してほかの親戚の家に泊まり、僕はホストマザーの姉(以下ホストアント)の家族と一人で滞在していた。ホストアントはホストマザーとは全く対照的な性格、考えの持ち主だった。思慮深く教養もあって静けさを好む。話は面白いし性格が合うなと思った。彼女の家で過ごす時間はとても心地がよかった。初めて滞在する家とは思えないくらい。僕はそこでの数日間を楽しんだ。散歩したり、趣味の話をしたり、用事に付き合ったり特に何をしたわけでもないが、ホストファミリーと一緒には感じれない種類の楽しさ、感覚だった。ただひとつ彼女が僕のホストマザーのことをよく批判するのは気になったが。その後が辛かった。ホストファミリー、特にホストマザーのいやなところ嫌いなところが目に見えて感じられるようになった。ホストアントの家に戻りたいとさえ思った。「やだやだやだ!」「Ahhhh!」その日の日記を見るとその思いが強烈につづってある。僕は時間が解決するのをただ待った。ところが数日後、事件は起こった。
「あなたはここを離れることになるかも知れない、あなたはこの家族と残りの時間を過ごしたいの?」
僕は動揺した。ホストアントが受入団体に連絡を取り僕のホストファミリー、特にホストマザーは僕をホストするべきではないと訴えたのだ。さらに彼女は僕のホストファミリーになることを提案した。そのことを知らされて僕は正直ホストチェンジすることを考えた。時間をかけて考えることをホストファミリーに伝えた。少し経ってホストアントから僕に電話が掛かってきた。電話の中で彼女は僕がメルボルンで経験できること、それが僕にとって価値ある時間になること、そして僕が愛らしい子だったことを話した。僕は彼女に好かれていることを感じた。その電話はショックだった。僕はホストファミリーに好かれていることをあまり感じたことがなかったからだった。その電話以来僕の思いはホストファミリーを離れることに傾きはじめた。僕は悩み続けた。どうしたらいい?それは今までにない感じの苦しさだった。僕は自分の未来を自分で選ぶことの重さを感じていた。数日後、僕はコーディネーターと話す機会を得た。2,3時間話だっただろうか。僕はマックの狭いテーブルの上で格闘していた。僕の奥底にあるよく見えない何かををひとつひとつ探り、言葉にし続けた。あれだけ正直にすべて話せたのも彼女が信頼できる人だったからだと思う。店員が店を掃除し始める時間になって、僕たちは席を立った。帰りの車の中でご褒美の甘いソフトクリームに凍えながらもしゃぶりついた。
僕はホストアントが僕をホストできないことを知らされた。そしてそれでもホストチェンジしたいことと、その理由を伝えた。彼女はホストマザーが愛情を見せることを得意としない人なのだろう、そして僕がそれを寂しく思っているのだろうと言った。僕ははっとした。その通りだった。それまで何かホストマザーと合わないような気がしていたのは、好きになれずにいたのはそこに繋がっていた。ホストマザーを嫌だと感じ続けていたのは彼女が何か冷たい心の持ち主に見えてしかたなかったからだった。
僕はそのことをホストマザーに打ち明けた。彼女は親の愛情を寂しく思いながらも育ったこと、自分自身を愛そうとしながら生きてきたこと、彼女の夫がただ一人I love you を言ってくれた人だったこと、そして僕の母の日の手紙のI love youを読んでひそかに泣いていたことを教えてくれた。彼女は僕も自分の子供も愛しているのだと言った。彼女は涙していた。そしてその涙は本物だった。その涙の裏に流れただろう多くの涙を僕は感じた。それは僕の心に強く強く残った。
僕は気づいた。僕が彼女を冷たい人間だと決め付けていたこと。僕が彼女を尊敬していなかったこと。けれどもひとは決して簡単に理解できないものだということ。どんな人もその人の歴史を持っていること。どんな人も尊敬に値すること。言葉は知っていただろう、でも僕は知らなかった。とても大切なことを学んだ。
僕はこのホストファミリーと残りの時間を過ごすと決めた。離れたくないと感じた。それから、ホストマザーの多くの言葉、振る舞いが違って見えるようになった。いまぼくは、ここでの生活を楽しんでいる。